2003/9/13(土)13:54 - 無加川のニジマス (男)
羽後飯塚駅での「トワイライト」同士の交換を車窓から見てか
ら、私も床に入りましたが、窓のブラインドも降ろし、カーテン
を自分の寝台の周囲に張り巡らして、自分の寝台の照明も完全に
消灯している上に、寝る前にはシャワーを浴びているのにもかか
わらず、前回の乗車時のように熟睡することはできず、時々、寝
返りを打つのを繰り返しながら、ウトウトと寝続けました。この
間に、「トワイライト」は、東能代駅、鷹巣駅と通過していきま
した。ハッとして自分の寝台から飛び起きたのは、午前1時5分
頃でした。「トワイライト」は、機関車の乗務員の交代のため、
大館駅で、大阪−青森間の途中駅では最後となる2分間の運転停
車をしたのです。私は、かつての大館機関区のレンガ造りの車庫
があった場所の方向(花輪線の発着ホームの向こう側)を、自分
の寝台の車窓から眺めましたが、暗闇の中では何も見えません。
大館駅を発車した後、「トワイライト」は、いよいよ、秋田・
青森県境の矢立峠越えの区間に差し掛かります。白沢駅、松原ト
ンネル、陣場駅と通過し、やがて、全長3qの矢立トンネルへと
突入しました。この矢立峠越えの区間を通過中、私は、夜の闇に
包まれた矢立峠付近の景色を自分の寝台の車窓から眺めながら、
5年前の9月の矢立峠越えの区間の旧線跡の探索旅行の時の思い
出に酔いしれていました。5年前の旅行は、NHKテレビの往年
の紀行物ドキュメンタリー番組である『新日本紀行』で、1970年
(私が生まれた年です)9月に放送された「三重連の峠/秋田・
青森県境〜矢立峠」の回のビデオソフト版(『新日本紀行』の全
60巻の傑作選のビデオソフト版の第6巻としてリリースされてい
るもの)を図書館で何回も借りて、自宅で何度も繰り返し鑑賞し
たことや、宮脇俊三氏の『鉄道廃線跡を歩くW」での矢立峠と大
釈迦峠の旧線跡の探訪記を読んだことに刺激されて実現させた旅
行でした。矢立トンネルを抜けて青森県に入り、津軽湯の沢駅、
碇ヶ関駅、長峰駅、大鰐温泉駅と通過し、やがて、津軽平野に出
て、深夜の弘前駅を通過しました。弘前駅の東側には、かつての
旧線時代の矢立峠越えの補機などに使用されたD51や五能線用の
8620形などが配置されていた旧弘前機関区(現・弘前運輸区)の
扇形車庫と転車台があるのが見えました。弘前駅を出て、東能代
駅で分岐した五能線の再合流駅である川部駅を通過し、さらに、
浪岡駅、大釈迦駅と、青森駅を目指して深夜の津軽平野を走り続
け、やがて、津軽平野が尽きる場所にある大釈迦駅に差し掛かり
ました。大釈迦駅では、コキ100 系列20両編成で、長岡運転区所
属の赤いEF81に牽引された、札幌貨物ターミナル駅発・大阪貨
物ターミナル駅行きの4052レ(2002年12月のダイヤ改正で、高速
コンテナ貨物列車Aに格上げ)と思われるコンテナ貨物列車が、
「トワイライト」との交換のために上り線ホームで運転停車して
いるのが、通路側の車窓から見えました。大釈迦駅を通過した直
後、全長2qあまりの新大釈迦トンネルに突入しました。この大
釈迦峠越えの区間の付近も、5年前の9月に、矢立峠越えの区間
と同じく、旧線跡の探索のために訪れた場所です(矢立峠越えの
区間を探索してから、ここを訪れました)。新大釈迦トンネル通
過中も、5年前の旅行の思い出に酔いしれていました。やがて、
新大釈迦トンネルを抜けると青森市内に入り、鶴ヶ坂駅、津軽新
城駅を通過し、東北新幹線の駅が建設されることになる新青森駅
を過ぎると、青森信号場へと向かう貨物線が分岐し、さらに、青
森運転所との回送線、津軽線が進行方向の右側に寄り添ってくる
と、左に大きくカーブを切り、午前2時13分に、青森駅に到着し
ました。この青森駅で、乗務員がJR西日本の車掌さんからJR
北海道・函館車掌所の車掌さんに代わり、また、牽引する機関車
が、青函トンネルを含めた津軽海峡線(青森−五稜郭間)専用の
電気機関車であるED79となるため、7分間も運転停車します。
(以下は、次回に続きます)
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